ドキュメント!ドキュメント!

サンヨーDMX-CG65 Xacti

2007年8月1日
シェルター トミーザグレイトのフライヤーを折り込む


最近小さなムービーカメラを買って持ち歩いている。ムービーカメラも8ミリフィルムのカメラも持っているのだが、たいした機能もなく画質もそこそこの小さなカメラを買わなければいけないと、その機種を知った瞬間に思った。このカメラを今、持たないといけない。手のひらに収まるサイズということが重要だった。


記録用の映像を撮るのに便利だとか、ドキュメンタリー作品のサブカメラとして携帯するとかではない。自分が「今だ」と思ったときに、目の前にあるものを、その場で撮らないといけないような義務感にかられたからだ。


今、世の中で大切で大変な何かが起こっている。大きなことが起こっている。そこには嫌なこともそうでないことも、いずれにせよ、今後の世の中〜個人に関わる大きなものが蠢いているのを感じる。


それを掴まないといけない。きっと今後の自分に関わることのはずだから。


何が起こっているのかという分析や批評は、今必要ない。
体と感覚と嗅覚で、見えない流れに呼応すること。
そのアクションを見せること。形にすること。形に収めること。
その繰り返し、繰り返し、の、反復運動。


だから僕が欲しいカメラに余計な機能は欲しくなかった。ただ、写ればいい。それしかできないものが欲しかった。そして、できることなら考えるよりも早い動ける反射神経が欲しい。


というもの、今、ドキュメントということが気になって仕方がないからだ。ドキュメンタリー作品ではなくて、ドキュメント。自分の、自分が信頼を置いている人の、ドキュメント。そういった皆が、今、何を感じ、何をを発し、何をしているのかを見せないといけない気がしている。見ないといけない気がする。今は過程を提示することに意味がある。そこに批評や分析や推敲や編集を入れてはならない。


きっと、自分が何のために何をしているのか、信頼の置ける人が何のために何をしているのか、ということしか信頼できる軸が成立し得ないものに世界はシフトしていっている。


だから自分たちのことは自分たちで選ぶ。自分でやる。


ここには大きな絶望と小さな希望がある。


僕と同じ30代の人は特にその感じを感じている人が多いようだ。何故だろう。まだ、わからない。わかることがひとつあるとすると、30代という社会的に若くはないが、社会的な力もなく、現場を預けられているから敏感に何かを感じているのだろうということ。公でも私でも。現場感という言葉はあまり好きではないのだが、皆、現場で選択を迫られている。


まあ、年代に限らず、皆、自分の現場を持っている。皆、小さな自分の戦場を持っている。


今は繰り返し繰り返し「今」をアクションすること。ドキュメントすること。過程を見て、過程を示すこと。何に喜び、何に怒り、何に泣き、何を楽しんでいるか。それをいちいち言うこと。ただ繰り返し繰り返すこと。そこに自己愛や自己顕示を紛れ込ましてはいけないこと。その積み重ねの先に、シンプルに言い当てられる「言葉」が待っている。そこに答えや秘密があるはず。


基本的に機械が嫌いで、ネット上でのコミュニケーションなどもっと嫌いな自分がブログを解説したり、機能のない小さなカメラを買ったり、ituneをダウンロードしてipodを買ったり、DVDに焼いて皆に配れるようににDVDドライブを買ったりと、せっせと、いつになく動いているのはそういうわけだから。