あるフォークミュージシャンの話から

(1)
数年前のこと。1970年代初頭から中頃にかけて活躍した
フォークミュージシャンに長い時間をいただいて取材をした。


1972年頃に時代の寵児となり、
1970年代半ばに大手レコード会社に移籍。


その年のいち押しアーティストとして
矢沢永吉遠藤賢司と共にプッシュされるも結果は出ず。
(売れたのは永ちゃんのみ、、)


やがて1970年代末にその人がいたデュオは解散。
相棒は親交の深かったロックバンドに加入することになった。


1980年代に入って以降は、
表舞台のスポットライトが
あたることはほとんどなかったが、
その人は今でも歌い続けている。


その人が世に出た1970年代初頭に何が起こっていたのか。
吉田拓郎井上陽水忌野清志郎泉谷しげるらが重鎮となっていく中、
何故、その人は流れからこぼれ落ちてしまったのか。
何故、今日まで歌っているのか。


自宅にお邪魔して、その波乱の顛末と
それでも「歌ってきた」ということの意味を
聞いているうちに、およそ10時間が経過していた。



(2)
たくさん聞かせてもらったエピソードからひとつ。


1970年代初頭。ロックバンドをやれる若者は
東京に自宅のある、裕福な家の子供が多かった、と。


どうしてかというと、まず演奏場所にドラムセットが
完備されているところが少なかったから。


必然、ドラムセットを持っていて、
それを運搬できる車を持っていることが、
ロックバンドを維持できる条件だった。


そんな状況で、無名の若者たちが
GSに代表されるような、
それまでの芸能音楽界的しきたりを無視して、
手前勝手に活動するには、
フォークギターがてっとり早かった。


多くの者はアコースティクギターを持っていたからといって
フォークソングをやろうと思っていたわけではない。
それしかなかったから、それを手にして歌ったのだ。


だから、パンクのようなフォークソングが多かったんだよ、と。


ついでに言うと、周りにいた若者たちも
手前勝手に演奏場所を作って、イベントを開くようになった。


その時のD.I.Y.は、フォークソングが大流行して
音楽ビジネスのひとつの形になった時に終わったけれども、
その時の熱気にあてられた人は、
今も何かを捨てられずに生活をしている。


そういう人たちとはずっと繋がっているよ、と。



(3)
自分はネットでの配信などに音楽の未来を見ているわけではない。
でも、嫌ったらしい業界の慣習は無視して、
何かをしでかしてやろうと思っている若いミュージシャンは、
ネットでも何でも使えるものを使って、
どんどん手前勝手にやればいいと思う。


そこから才覚のあるひと握りの人たちが現れて、
音楽の未来を作っていけばいい。


どっちにせよ、音に込めた思いはデータに還元されて
おわるわけではないのだから。


自分がレーベルを始めた頃に良かったことは、
簡単にCDが作れるようになったことだった。


だからCDを作って、売って歩いただけなのだ。


CDとか、ネットとか、ライヴとか、
やり方はどうでもいい。


音楽業界はビジネス的に崩壊寸前と言われているけど、
やりたいことをやりたいようにやれる自由は
以前よりずっとあるのだから、
やりたいことをやりたいようにやればいいのだ。


縮こまった人たちが思いもしなかったアイデア
ちょっとだけクレバーに、勇気をもって。


どんな音楽の未来が待っているのか
健闘を祈りつつ、楽しみにしている。


The Doors『Break on Through』



この歌のイントロを聴くと、
いつでも、どこででも新しいことが始まる予感がする。