こういったフィーリングのために

yamamototakamasa2008-01-30

今日はジャケット制作で100年近い歴史を持つ会社に取材に行った。エコ意識の高まりから需要の高まっている、紙パッケージの未来像というようなことが主なテーマであった。

音楽は生活必需品ではない。商品という意味では。だったら、使い捨てでいいならデータ配信、マテリアルとしての価値を大切にしたいなら、定価を上げてでも「手元に置いておきたいもの」にすればいい。取材をしながら言うのもなんだが、つまりは嗜好に合わせて好きにすればいい。

ただ、エコだろうが、ビジネスだろうが、(エコがビジネスになる時代なのだが)、音楽は、ビートは、詞は、貨幣という便宜上の物々交換のマークが生まれる前から存在している。もっと言うと、私有財産という概念が生まれる前から存在している。その頃は人間はまだ存在していない。生き物としての、感情の伝達手段として、それらは、先にあった。

本当は、使い捨てとか、マテリアルとしての価値とか、そんなことは後付け。

伝達手段としての、形態は、伝達手段として、もともと存在していた。愛を伝えるために、羽を広げ踊る鳥もいるのだ。

たぶん、それは生き物が持つ本能。

今春、まったく方向性の違う2タイトルをリリースする。もう、4年程、付き合っているミュージシャンのタイトルだが、何から何までまったく違う。その2タイトルのマスタリング前音源を、馴染みの元エンジニアのIさんに数日前に渡した。

翌日、Iさんのブログには、片方は歌詞に、もう片方は音に、驚いた。と、書いてあった。そして、1行開けて、ビジネスにならない音楽をビジネスにはできない、でも、ビジネスにできない音楽をやってはいけない、とは、誰も言っていない。ビジネスにできるかできないかを、決める権利は、作り手と受け手にある。。。

そんなことが書いてあった。作品が良かったのか、悪かったのか、売れないものなのか、売れるものなのか、それは文脈ではわからなかった。いや、売れないけれども、それだけが全てではないという意味なのかもしれない。でも、今は売れないといけない時代なのだが。

IさんにそのサンプルCDRを渡しながら、あるミュージシャンの話もした。酔っ払ってはいたが、その話をしたのは覚えている。

そのアーティストは80年代後半にデビューをしたアーティストで、結局、売れることはなく一般的な音楽シーンからは、姿を消した。だが、今も活動している。結婚し、家庭を築き、仕事を得、それでも、趣味でもなく音楽をまだ続けている。遊びではなく続けている。今もって、彼の音楽は進化している。らしい。(最近、あるライターの原稿で知ったから、「らしい」)。

人生における音楽の付き合い方とは、何なんでしょうね。そんなことを焼酎を飲みながら、話していた。

Iさんは「彼のCDR、買ってあげてくだだい」。と、同じく焼酎を飲みながら、笑っていた。で、その夜、Iさんのブログには、上の言葉が。

音楽とは、今、世の中にとってどういうものなのかは、断言しない。このブログを書いている夜が明けると、明日は、Iさんに渡した片方のサンプルCDRのマスタリング。完パケ音源が、明日の夕方には完成している。

今日、その音源の曲順を決めた。プロデューサーの曲順案も、メンバーの曲順案も、僕の曲順案も捨てた。売るためだけの曲順にした。曲の並びで作る、アルバムの物語を捨てた。そのバンドは売れないと意味がないから。夕方、メンバー全員に、その曲順を確定としてメールした。が、誰からも返事はなかった。明日、マスタリング前に、朝から、意図を直接、彼らにに話してから、スタジオに入る。

意思なのか、思いなのか、過程なのか、結果なのか。何が正しいのか、わからない。結果も、もちろんわからない。もう、「神のみぞ知る」と言って、気取ることもできない。

でも、だから、何故、自分が音楽にかかわる仕事をしているのかだけは、忘れないようにしたい。

そんなことを思い出させてくれる、そんな音楽を作りたい。

今の時代、音楽がどういう意味を持っているのかは、分析しない。ひとつ思っているのは、何かあったときには、大好きな曲を聴いて、ねじを巻く人がレパートリーに入れてくれるような曲を作りたいということだろうか。

隠し撮りだろうが、音が割れていようが、ステージがきちんとフレームに収まってなかろうが、へろへろのボーカルだろうが、きっと、伝わるものはある。20年も前に聴いた歌を今も、何かあるときには、聴く。

それだけは、忘れないようにしたい。そうじゃなければ、いつでも辞めてやる。

The Pogues「Fairytale of New York」